伊豆を綴る 第2回

 

 朝の伊豆の海は輝く。毎朝、異なる色で輝いている。

  夜が明けて陽が昇り、その光が、揺れる波の一つ一つをつぶさに優しく照らすとき、快晴の水面は無数の貝殻を敷き詰めたよう、金色に光り輝き、海岸の大小さまざまの岩肌や潮風に揺れる木々の豊かな枝葉に反射する。伊豆の海を形創る自然はまるで真珠のような朝露を纏って輝く。

  灰色に濁った雲が漂う空の朝には、この世とこの世でない何処かを結ぶ、まるで蜘蛛の糸のように白く細い風が、鈍い妖気を纏い大きく滑らかな曲線を描いて不規則なリズムで雲間からその海面に吹き降りる。風は海面を滑り、潮の湿気を含んで海に佇む者のこめかみと首筋を、息を吹きかけるかの如く通りぬける。血の匂いが行き過ぎる。目前が赤く染まるような命の息吹、血の匂いと、純粋無垢な雨、それは清水の匂いだ。海、空、風、其処から生まれる命の匂いたつ曇り空の伊豆の海。濁ってなお、透明に輝く。太陽の光が隠れる日の海は、ことに、この地に居てずっと在る人々の念、この地で生きこの地で命果てた先祖たちの魂が、小さな白波や木の葉、波打ち際の小石に姿形を変えて、新しい別の息吹と()って在る様をみる。

  藍色に輝く、陽光眩い朝の海。汐吹海岸に向かう海岸線を歩く。地平線際の小舟は穏やかなその海に身を委ね、ただ静かに浮く。伊豆の海の神に抱かれる。伊豆を語るとき、肉眼で捉えることはできぬが確かに其処に在る神秘的で荘厳な存在を感じずにはいられない。それは私には計り知れぬほどに偉大で、そして伊豆という土地と其処に生きる人々の感覚(こころ)に寄り添う何処までも素朴なもののに感ずる。人の言葉で言うところの「神」がこの世に存在するならば、それは太陽に反射する波とその上を吹き行く風との僅かな隙間に在る。潮の光を受けた鮮やかな緑とそれを撫でる風との僅かな隙間に在る山の木々に芽吹く蕾とそれを覆う霜の結晶との小さな隙間に在る。汐吹トンネルを彩る紅葉の木漏れ日の中に居る。春先の朝日が、海岸の大きな岩山をその背後から照らすとき、岩山の輪郭は、連ねた金剛石のように深く光り輝く。その様はまるで穏やかに微笑む仏の光背のように燃え、見る者の心を写す。伊豆の海を創る岩、山、風、静かに、穏やかに、時には荒々しく打ち寄せる波、それら自然の一つ一つが、太古の昔から今と何ら変わらず其処に無二の美しさで君臨しているのだ。

  三月四日の川奈の海は荒れていた。豪雨に陰る灰色の空の下の海は翡翠色に濁り、波は長い帯のように揺蕩って互いにぶつかり合い、白い飛沫を上げて循環していた。その激しい様を見ていると突然、その翡翠の波が無数の僧侶の頭に見えて恐ろしくなった。何百何千の僧侶が袈裟を大きく広げ、その坊主頭を突き出し、凄まじい勢いで岸に向かい突進してくる。鳥肌がたった。私は無数の僧侶たちの激情を観た。それは、川奈の海に生き続ける魂と念、そのものだったのである。

 

 

平成29年3月11日