「ああ、夢よ・・・。」と、安心し、女は幾重にも重なった深い闇に落ちていった。

 

 女は高原の、あの桜並木の真ん中に独りで立っていた。傾斜の緩やかなその並木道の両脇には、柔い撫子色の花弁を豊かに蓄えた桜が咲き乱れている。「牡丹桜だわ。そうだったわ・・・。」女はそう感じていた。蒼く葉が揺れた。陽光の輝きが瞼の奥に射し、女は鈍い痛みのようなものを感じていた。風が吹いたようだ・・・。千草色の風が彼女の前髪を小さく舞い上げた。

 

夢の中、女は自分を見ていた。そして自分が居るその世界の全てが一枚の絵画であり、その中に立つ自分は絵の中に霞む一つの住人のようであった。中間色の色彩の中に佇み霞む住人。目も鼻も口も無い。ただ微かな体の輪郭だけが浮かぶように描かれているだけ・・・。女は、ぼんやりとした自分自身の色を見ていた。心が重かった。その理由を考えたが解らない。女は心臓が冷たい湖に沈んでいくようだと思った。するとその瞬間、無数の花弁が音も無く螺旋を描いて舞い上がった。目前が桜色に染まった。くらくらと酔ったようで思わず、

「・・・ああ。」

と、女は声を漏らした。女は感じた。強く感じていた。それは一瞬の恋であったと。その恋を女は追わず、恋も女を追わなかった。初めての淡い感情に戸惑ったその日に、女は大切な何かを暗い水の底に置いてきてしまったのかもしれなかった。

「そうかもしれない。」

もう一人の自分が色彩の中の自分の耳元でそう呟いていた。そして、想った。あの春の日の出会いを今も、恋であったと知っている自分を想った。すると瞬間、強い羞恥心のような、支配欲のような、それでいて激しい抒情のような感覚の渦の中に引き込まれた。交錯する感情の潮流(ちょうりゅう)の内に女はこの感覚に時折さいなまれる。その度に人間であることの無気力と恐怖を感ぜずにはいられなかった。その感覚が夢の中まで自分を追ってくる。

私は私を憐れんでいる。女は自分を罰したい程にそのことを知っていた。吐き気がする。一房(ひとふさ)呼吸もできない。そして、ああ、女は抑えきれぬ程に激しく温かい血を欲した。そして自らの腕を幾度幾度り刻んだ・・・

  

桜の花弁に朱色の血がゆっくりと染み込む様を見ていた。見ているのは、色彩の中の自分なのか、それを見ている自分なのか、彼女にはもう解らなかった。女はもはや一つの花だった。鮮やかな激しい苦痛の色に染まった花。葉も枝も根も持たぬ、浮遊した花。

     鉄のような疲労感が襲う。(こぼ)れ桜血に濡れた左腕さらさらと舞い落ちた。女は自分の身体か何処から来て何処へ行くのか解らなくなっていたそうして女は自らの涙を感じた。真夜中に母を恋しがり嗚咽する幼子のように(いたい)()な涙であった。すると自らの涙の熱あの遠い日の男の肉体の温度をも感じたような気がした。女は次第に、彼のその瞳の色、その目尻に有る影の色を鮮明に脳裏に描き始めていた。あの春の日に、女は男の目を見つめていた。

    

 そして、恋という名の純心を哀れんだ。

 

 静かに女は目覚めた。空間の静寂が何かを語っているようであった。六畳小部屋の天井の、剥げかけた鶯色のダマスク模様が冷たい湖の泥の揺蕩いのように見えて怖くなり、女は横になったまま思わずそっとその左手で自分の心臓を温めた。ふと、朝陽の射す南東向きの小窓を見ると、隣家の庭の小米桜の葉がケタケタと、風に回る駒のように、おかし気に揺れている。女は想い出した。

 

 「匂いを探しているんだわ。わたし・・・。」